kohitujiのブログ

夫は天国へ旅立ち、重複障害、最重度の息子と私の二人に。淋しさの中に神様にすがる日々。

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コリントの信徒への手紙一 11章26節 主の死を告げ知らせるのです。

26節
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、
主の死を告げ知らせるのです。


イエス様は私達の罪が赦される代わりに十字架に架かられた。最後の晩餐では弟子達に
「これはあなたがたのためのわたしの体である」とパンを裂き「この杯はわたしの血に
よる新しい契約です」と葡萄酒を注がれた。イエス様を受け入れて洗礼を授かった者は
礼拝の中でイエス様の食卓に招かれます。罪なき神の御子が一度死なれ甦られました。
そして再び私達の所に来られるとの約束。なぜ罪無きお方が死なれたか伝えていきたい。



聖餐式にて讃美する讃美歌271番「いさおなきわれを」 シャーロット・エリオット作。


1)勲なき我を 血をもて贖い イェス招き給う み許に我ゆく
2)罪科の汚れ 洗うに由なし イェス清め給う み許に我ゆく
3)疑いの波も 恐れの嵐も イェス鎮め給う み許に我ゆく
4)心の痛手に 悩めるこの身を イェス癒し給う み許に我ゆく
5)頼りゆく者に 救いと命を イェス誓い給う み許に我ゆく
6)勲なき我を かくまで憐れみ イェス愛し給う み許に我ゆく


パンとブドウ汁を頂き胸いっぱいになります。特に4番は癒された自分が重なります。
イエス様の十字架にて罪赦され食卓に招いていただく、神様イエス様のご愛ゆえです。


昨日は教会で礼拝に預かることができ「カッコ悪いがカッコいい」というお説教でした。
大坂なおみさんの世界ランキング1位のニュースは今日はどこの教会でもこの話も出て
来るのでしょうね。神様は彼女だけでなくすべての人に賜物をお与え下さっています。


私たちの体、器官はそれぞれ違った働きをするがなにひとつ不要な物はないし、かえって
弱い部分こそ大切な働きをしていると言われた。神様がくださる賜物を大切に受け入れて
行くようにしようと。主を知り神様とこの世の価値観とは全く違うことに気づいた時に
人と比べなくていい、そのままでいい、愛されていると確信を持ち解放された時だった。


寒い日の続くこの頃、礼拝堂もあの方、この方のお顔がないことに、ちょっとの寂しさと
でも、もうじき暖かな春が来ることを待とうと希望もいただきました。教会大好きです!
入院されてる兄姉へのお見舞いもインフルエンザ流行で病院のストップが。祈ります。

コリントの信徒への手紙一 10章31節 すべて神の栄光を現すために

31節
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、
すべて神の栄光を現すためにしなさい。


栄光を現すとは神様のみ業を現すことと思う。神様はすべての人に賜物をお与え下さり
世に送り出される。賜物はその人だけのものでみな違う。その時は障害という賜物で
不自由だとか、こんな親の元に、と不運だと思っても賜物が何を意味するか分からない
ことも。息子は重複障害で言葉もないし歩行困難。理不尽なことも受け入れ泣くことも
なかった。気が付くと息子の周りは神様のご愛で包まれ、愛ある支援者達が囲んでいた。
家族も神様のみ業を現すために来てくれた息子を通して主にある神の家族になりました。



息子が帰宅でした。恐る恐る祈りつつホームの連絡帳を開けました。なんと夜は起きず
睡眠がとれていたのです!神様に感謝のお祈りをお捧げしました。季節や気圧や色々な
ことで目覚めてしまうのは時折あること。私は気兼ねもあり息子も睡眠不足だろう等と
心騒がせても自分では何もできない。神様の委ねよ、待ちなさいとのメッセ―ジだった。


小さな波に恐れ、いつまでたってもこんな所をうろうろする自分。でも神様に赦されて
新しい一歩を踏み出してる。自分も赦していただいているのだから許す者でありたいと
祈ります。祈りは聞かれる、神様に祈れることがどんなに恵みなのかと改めて思います。


先週の教会での2回の学び会で兄姉にも息子の睡眠時間がおかしくなり夜中に起きだし、
などとお話ししたので先生や兄姉たちが祈ってくださっていたことも感謝です。
いつもの礼拝と違い、人数も少ないので家庭的な雰囲気の中で良き交わりの場が持たれ
祈りの課題も共有できるのも喜びです。イエス様を真ん中に集える幸い、神の家族ゆえ。


明日の聖日、息子はお休みサインかな?私が家族代表で出席し福音を頂いてきます。
神様のお話を分かちあえること、夫婦で言葉が通じること、息子も喜んでいることを
信じます。インフルエンザが猛威の中、礼拝を守れる幸いを感謝しつつ、欠席される
兄姉たちの上に神様のお慰めとお癒しを祈ります。先生の冬期休暇も祈っています。

コリントの信徒への手紙一 9章22節 弱い人に対しては、弱い人のように

22節
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。
すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。


福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。とパウロは言う。神様から喜びの
知らせを頂いた者ゆえ多くの人に伝えていきたいと願い祈る。後に続く者も同じです。
体の弱りだけでなく信仰の成長にも弱さや迷いなど皆が同じではない。向き合う人と
同じところに立って痛みや哀しみ等を共有して寄り添う中で、押し付けるのではなく
お伝えしていくと。相手を理解し愛と忍耐をもって、イエス様が仕えるために来たと
言われたように。パウロの後ろにもイエス様のご愛、聖霊が働かれていることを思う。



あっという間に今日は金曜日。一週間が早く感じるようにというか、時が過ぎるのが
早くなったように思います。地上での残り時間が減ってきてるから?でもないような。
することが前より遅くなり、その上あれをしてこれをしてといういくつもの動作を繋ぐ
鎖が途中で切れてしまったり、一つ一つを丁寧にと神様がおっしゃるのかもしれない。


夫の姉宅にリハビリ病院の退院担当の方が訪ねてこられます。自宅の様子を見て実際に
歩行器を使って生活していけるかチェックして退院許可が出るとのこと。OKが出れば
30日に姉が外泊して、よければ31日に退院となるそうで、姪が立ち合いしてくれます。


姉は自宅に帰って過ごしたい思いと、ホームに入居して暮らすのが安心かと迷いが出て
いるようです。独身なので一人暮らしは慣れていますが終の棲家はどこがいいのかと。


イエス様をお伝えできたらと夫と祈りを合わせていますが八百万の神がいいとのこと。
今日のみ言葉のように姉と同じ土俵で、弱さや不安も共有しながら否定するのではなく
話を聞いていけたらと思っています。神様はなんでもおできになる、ここに希望を置き
私達が信じているので家族も救いに預かる、聖霊が働かれるよう祈り続けていきます。